まなび「まっすぐ、ゴー!」
『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!☆徹底解析☆』
『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!☆徹底解析☆』――それはノンポリ天皇・芝浦慶一が初めて著した長編評論(?)である。三段組みの冊子で28ページ、原稿用紙にして約100枚弱(改版)に及ぶこの文章を、芝浦はなんとわずか一日半(初版75枚に丸一日)で書き上げた。恐るべき愛情! おそらく全世界を探しても『まなび』について一日で75枚書いたという男はおるまい。読んでくださった方々は口を揃えて「愛情を感じた」と仰る。この本についてはもう「面白い」とか「面白くない」の次元を超越しているのだ。そこにあるのはただひたすらの愛である。芝浦慶一という人間がどれほど『まなび』を愛していたかという魂の記録である。たった13話の取るに足らない萌え絵のアニメを、これほどまでに熱く愛した男がいたという一幕の歴史なのだ。
『
がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』とは、2007年1月から3月にかけて放送されたufotableによるアニメ作品である。このページは、ひたすらそのアニメについてだけを綴った小冊子『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!☆徹底解析☆』(2009年5月10日初版、12日改版発行)を再録し、いくらかの加筆・訂正を行ったものである。
長いので、どこからでも読んでください。まずは「総論」と、「人物解説」のまなびの項を読むことをおすすめします。そのあとは、そのまま「人物」を読み進んでいただいてもいいですし、「あらすじ」に戻っていただいてもかまいません。「作品概要」と「設定」は基本情報なので、知っている人は読まなくてもよいものです。
ちなみにメインは「各話あらすじ」と「人物解説」なので、全話見たので話は知っている、キャラクターも知っている、という方も是非ぜひ目を通してくださいますよう。読み終えたころには、きっと『まなび』をいっそう好きになっていることうけあい。のはずです。そう願っています。
【目次】
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総論
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作品概要
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設定
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各話あらすじ
第一話『学美星人、あらわる』
第二話『まっすぐでゴー』
第三話『月曜日じゃ遅すぎる』
第四話『プロモでゴーの巻』
第五話『ふたりっきりの、夜』
第六話『シナモンシュガーレイズド・ハピネス』
特別編『夏だ! まなびだ! 強化合宿だ!』
第七話『なつのおしまい(ばいばい)』
第八話『たたかえ聖桜生徒会』
第九話『わたしたちのうた』
第十話『集う仲間たち』
第十一話『わたしにもみえるよ』
最終話『桜色の未来たち』
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人物解説
◎天宮学美
◎稲森美香
◎上原むつき
◎衛藤芽生
◎小鳥桃葉
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あとがき
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改版にあたって、追記
●総論
『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』は、保守反動のアニメである。
それが筆者の「まなび観」だ。
では、『まなび』はなにを「保守」するのか?
「まっすぐ」という在り方であり、「わくわくきらきら」を大切にする心であり、「みんなで作る文化祭は楽しいに決まっている」という価値観である。
では、なにに対して「反動」するのか?
一つは「現代のアニメに対して」であり、一つは「現代の社会に対して」である。
一九九五年の十月に、なにかが変わりはじめた。
『新世紀エヴァンゲリオン』の放映が始まったのだ。
『エヴァ』の本放送は九六年三月に終わった。九七年の映画公開時にはすでに、日本アニメを語る上で絶対に避けては通れない一作となっていた。「エヴァ現象」に前後して、アニメ界は変わった。
もちろん『エヴァ』だけが原因と言えるわけではないのだが、アニメ受容者の意識は明確に変わった。世間の「アニメ」や「おたく」に対する考え方も、おそらく変わった。だからもちろん、作り手の意識も変わって行かざるを得なかった。
たとえば、九七年三月の『家なき子レミ』終了をもって、あの「世界名作劇場」が終わった。明らかに、一つの時代が終わりを告げようとしていた。
誤解を恐れず端的にいえば、アニメがほぼ完全に「子供のもの」ではなく「おたくのもの」へと固定されていったのだ。
一九八〇年代末から一九九〇年代半ばまで、アニメは「子供のもの」だった。少なくとも、そういった側面を今よりも強く持っていた。
七〇年代、八〇年代のアニメは、『宇宙戦艦ヤマト』(一九七四)や『機動戦士ガンダム』(一九七九)、また『うる星やつら』(一九八一)などの登場により、「おたくのもの」へとなりつつあった。この期間に生み出された作品の多くが劇画に近いような絵であったり、大人やせいぜい高校生くらいの青年が主人公であったり、エロティックな要素をはらんでいたり、ストーリーが複雑で理解しにくかったりした。『ドラえもん』(一九七九)以降の藤子不二雄原作のアニメ群が大人気を博したのも、幼児・児童向けの作品の割合が減っていたことの裏返しではないかと思われる。
しかし八〇年代末期、そのような動きに揺り返しをかけた「保守反動アニメ」の名作が登場した。『魔神英雄伝ワタル』(一九八八)である。小学四年生の戦部ワタル少年が異世界の「創界山」を舞台に「龍神丸」という魔神(ロボットのようなもの)に乗りこみ、悪の親玉「ドアクダー」を倒すべく仲間たちと大冒険をする、という子供でも純粋に楽しめる魅力的な設定とストーリーとを備えたこの作品が大ヒットをとばし、日本のアニメはまた「子供のもの」へと還っていった。もちろん「おたく心」を満足させるための要素もふんだんに盛り込みながら、アニメは熟成していった。
『ワタル』に続いて『魔道王グランゾート』『魔神英雄伝ワタル2』、「勇者シリーズ」に「エルドランシリーズ」、『NG騎士ラムネ&40』、『ゲンジ通信あげだま』、『ママは小学4年生』など、サンライズを中心として小学生の日常と非日常をバランスよく描いた名作が多く生まれていった。『ちびまる子ちゃん』や『きんぎょ注意報!』、『少年アシベ』に『ヤダモン』もあったし、藤子不二雄原作アニメも『キテレツ大百科』『チンプイ』『21エモン』『ポコニャン』などがあった。NHKも九五年の『飛べ!イサミ』で、小学生を主人公にした日常SFに挑戦し、不朽の名作たらしめた。
子供にとって身近で夢のある題材をとって愛と正義と熱血と友情と「なにをおいても絶対に正しくて、大切なこと」を訴えた、筆者の思う「佳きアニメ」がここにおいて黄金期を迎える。九五年の「世界名作劇場」は、かの『ロミオの青い空』だった。『エヴァ』が放映されたのは、そんな年だったのだ。
(このあたりは多分に筆者の思い入れによるものが大きいので、読者諸氏はそれぞれ思い思いの「あの頃の名作アニメ」を心に思い浮かべて下さい。『ドテラマン』とか)
『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』の放映が始まったのは、『エヴァ』の劇場版が公開されてから十年後の、二〇〇七年一月である。この間、数多のアニメが百花繚乱に咲き続けたが、その多くは深夜帯や、ケーブルや衛星放送、OVAなどに追いやられ、子供が見る健全な時間には『ドラえもん』『ちびまる子ちゃん』『クレヨンしんちゃん』『名探偵コナン』など、おなじみの作品がやっているばかりだった。そんななかでも『おじゃ魔女どれみ』や『ふたりはプリキュア』などの名作はもちろん生まれたが、全体としては「子供には『ドラえもん』でも見せておけばいい、安心して視聴率が取れる。それよりもおたく向けに作品を量産しなくては」という態度のものだった(ようにしか筆者には思えない)。
筆者は幼いころに見た、これまでに列挙してきたような名作の数々を吸収して育ってきた。それによってある種の情操教育がなされたと思っている。いまの子供たちは、いったいなにを見てなにを吸収して育っているのだろうか? たんなるノスタルジーにとどまらない意味で、筆者の目には、現在があのころほど「子供のためのアニメ」に恵まれた時代であるとは決して思えない。現在、筆者は職業柄多くの子供たちと接する機会があるが、彼らとのふれあいを通した実感としてもそう言える。「それが時代というものだ」と言ってしまえばそれまでだが、それでもその「時代」というものに一石を投じようとした『まなび』というアニメを、筆者は高く評価したい。
まず、こんなにもまっすぐ、ていねいに「少女の日常と友情」を描いたアニメは、類を見ない。近年では前述した『ふたりはプリキュア』がそうで、日常のこまやかな描き込みが秀抜だったが、あれは「一対一の友情関係」だった。『まなび』は、「五人の友情関係」を描きながら、その関係を構成するための「一対一の友情関係」をもそれぞれちゃんと(話数の許すかぎり)描き、さらに「一人一人の内面」にまで踏み込んだ、ほとんど奇跡のような作品である。
作画のクォリティが高いとか、キャラクターが可愛いとかそういう次元の話ではなく、テーマとメッセージ、人物の描き込み、巧みな伏線と演出、物語としての完成度、そして辛辣な「現代批判」としての側面など、『まなび』を評価するための観点はいくらもある。それらを、ほんの一部分ではあるが、小さな紙面を精一杯に使って、解説していきたい、というのがこの冊子の趣意である。
冒頭で掲げた、『まなび』が保守反動のアニメであるということの一つの理由は、上に書いた内容から明らかになったように思う。『エヴァ』以降の、「おたく向け」でしかない、ひねくれた、いたずらに複雑な、いわば「変化球」のような作品を礼賛し量産しようとするような流れに対する、反抗である。しかも、「おたく向け」に見えるような絵で、「おたくが飛びつくような」演出もとりいれて、あえてそれをやっているのである。もちろん作り手の嗜好や、「そうでなければ売れない」といった大人の事情もあることはあるのであろうが、結果としてできあがった作品を見れば、筆者には「あえて」だとしか思えない。
(ちなみに作中で「初号機」や「弐号機」と書かれたパソコンが登場する場面があるので、べつに作り手の側としては『エヴァ』が嫌いなわけではないだろうし、むしろ好きだという人もたくさんいるのだろう。かく言う筆者も、『エヴァ』という作品が嫌いなわけではないし、小学生だった時分にリアルタイムで見ていた。再放送も見た。が、そのこととあの作品がアニメ史に及ぼした影響というものは、また別である。)
『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』の「ストレート」とは、『エヴァ』以降に特に好まれるようになった「変化球」的な作品に対する、アンチテーゼなのではないか。『エヴァ』が、あるいは『ハルヒ』が伝えようとした、あるいははからずも「伝えてしまった」テーマやメッセージよりも大切なことが世の中にはたくさんあって、そしてそれらはきっと、アニメによって伝えることができる。たとえばそれは「ストレート」であること。胸をはって「まっすぐゴー」と言えること。照れないで「王道」を突っ走ること……そういえば『タイムボカン王道復古』という作品は、九三年から九四年にかけてのあの時期に作られたのだった。『まなび』はそれから十数年を経て発表された、ふたたびの「王道復古」作品である。
そして、実は『まなび』が批判しているのは、アニメに対してにとどまらない。現代社会そのもののあり方について、これほど鋭く的確なメッセージを向けたアニメは、二〇世紀最高の超名作『宇宙船サジタリウス』(一九八六)くらいしか思いつかない。
『まなび』でくり返し語られるテーマとして、「仲間といっしょになにかをやり遂げる楽しさ」というものがある。実はこの一見単純に見えるテーマが、本作に含まれる最大の「批判」であると言ってよい。
詳しくは、橋本治氏の諸作(『日本の行く道』(集英社新書)など)や、浅羽通明氏の『昭和三十年代主義』(幻冬舎)、あるいは氏が雑誌「m9」(晋遊舎ムック)創刊号に寄稿した文章を参照していただきたいが、現代において失われてしまった「大切なもの」の一つに、「協働」ということがある。日本がまだ貧しかったころ、「必要」という絆でつながれた人々は「協働」ということをした。そこには人と人との関わり合いを前提とした共同体が重層的に、織りなすように存在していて、「みんなで役割分担をして、なにかを維持していく」ということをしていた。「なにか」とは、家庭であったり、町内であったり、小さな工場であったりした。それはまた「国家」ででもあっただろう。そういった状況はだいたい、いわゆる「昭和三十年代」のあたりに消えていったらしい。
豊かになって、人々は「不便」を失った。失って、「協働」しなければならない「必要」も失った。そして「ものを考える」や「手を動かす」ということを、しなくても生きていけるようになった。「もう成長しなくてもいい」という状況をつき破って成長を続け、生産は主に機械が引き受けて、人々は消費するばかりになった。「消費社会」と呼ばれるものはそのように生まれて、もちろんよい結果ばかりをもたらさない。
二〇三五年にまなびたちが通う聖桜学園の一般生徒たちはまさしくこの「消費社会」というものに飲み込まれ、当たり前にそればかりを行っていた。一般生徒が「学園祭」よりも「駅前のダンスイベント」に興味を示すというのが端的な例である。「つくりだす」よりも「客として消費する」なのだ。キャッチーな「新しい制服」や「新しい校歌」を簡単に受け入れて「悪くない」と思ってしまうのも、「新しいものを買っては捨てる」という癖が身体に染みついているせいだろう。これはなにも二〇三五年の話だけをしているのではない。現代だって十分すぎるほどにそうだ。
橋本治は『青空人生相談所』(ちくま文庫)の中で、「平凡な顔をした退廃」という表現を使った。曰く、
陳腐というのは凡庸ということです。凡庸ということは、ザラにあるということです。ザラにあるんだから、別にそれをいやがることもないんじゃないかというのが、現代の最大の退廃なのです。
陳腐であるということは、退廃しているということです。現代では、既に退廃もそこまで大衆化しました。平凡な顔をした退廃とくっつく必要はないということです。そして、平凡な顔をした退廃ほど、逃げるのに困難を極めるものはありません。何故ならば、平凡こそは人類の行き着く最終の安息の地だからです。そこが退廃しています。そこに居着いたら、もう永遠に逃げ場はありません。
第一話でまなびが生徒会長としての承認を受けたとき、はじめに拍手を始めたのはしもじー(下嶋先生)だった。次にむっちー(上原むつき)、園長先生、そしてほかの先生たち。それからやっと、一般生徒たちが拍手を始める。そんな順番だった。生徒たちは、意識的にか無意識にか、「先生や一部の生徒が拍手してるんだから、自分たちも拍手しておくか」という、いわばその場のノリで行動を決定している。自分では何も考えず、ただ多数派、もしくは先生という権威に従っているだけなのだ。学園祭中止が決まったときも、一般生徒は「もう決まったことだし」とはじめから諦めている。橋本治のいう「ザラにあるんだから、別にそれをいやがることもないんじゃないか」というのは、こういう考え方のことだ。彼女たちは退廃していた。少なくともこの時点ではまだ、そうだった。
『まなび』という作品は、「平凡な顔をした退廃」という「人類の行き着く最終の安息の地」にいた一般生徒たち(まなび以外はみんなそうだったのかもしれない)が、まなびという生徒会長を得たことによって、自分たちで考えて能動的に動くようになったり、「仲間と協働する楽しさ」を知っていったりする、という物語なのである。
だから、主人公はまなびであって、まなびだけではない。まなびによって変えられた聖桜学園の生徒たちや、外部の人々(愛洸学園理事長や、愛洸生徒会長の角沢多佳子など)みんなが、本作の主役である。みんなが成長して、みんなが「わくわくきらきら」を知ることができたのである。
さらに言えば、『まなび』という作品によって目を開かれた筆者のような視聴者も、物語の中に取り込まれていると言っていいかもしれない。
『まなび』は、現代人が忘れてしまった「協働」のやりがいや、「なにをおいても絶対に正しくて、大切なこと」(たとえば「楽しい」ということ)を、視聴者に思い出させようとしている。それも、あえて「おたく向け」の要素(キャラクターデザイン、声優や主題歌の人選、かわいらしい演技、百合成分などなど)も入れて、「おたくたちよ目をさませ」と言わんばかりに、痛快にストレートなメッセージを伝えようとしている。
つまり『まなび』には、現代のおたくへ「古きよきあり方」を啓蒙するためのアニメ、という側面もある。どれだけの数の人々にこのメッセージが届いたのかはわからないが、筆者は『まなび』の魅力を信じたい。アニメ本来の魅力とは、『まなび』の魂が持っているようなものでなければならないと信じている。きっと、なんらかの形で伝わったことはあるはずだ。こんなにも美しく、正しく、熱い魂を持った物語が、人間の心を打たないはずがないのだから。
この冊子が、『まなび』という作品をより深く理解するためのよすがとなることを願います。「徹底解析」は各キャラクターに寄り添って行いましたので、メインは「人物解説」になります。作品をご存じの方はそこだけお読みになっていただいても筆者の主張がご理解いただけると思います。
●作品概要
『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』は、アニメーション制作会社ufotableのオリジナル作品として二〇〇七年一月から三月まで放映された、全一二話のテレビアニメである。DVDの七巻に第六話と第七話の間にあたる未放映話(特別編)が収録されており、実質的な話数は一三話となっている。マンガ、ゲーム、CDなどとメディアミックスされた作品であるが、本冊子ではアニメ版のみを取り扱う。DVDのライナーノーツやムック本などは極力参照せず、主に映像から論ずる。
全話の脚本は金月龍之介。主題歌はOP、EDとも作詞作曲は岡崎律子、歌は林原めぐみ、挿入歌は茅原実里。メインの声優に堀江由衣、野中藍、井上麻里奈、平野綾、藤田咲など豪華キャストを迎える。作画の質もテレビシリーズとしては最高に近い水準だった。
と、非常に気合いの入った作品であったのだが、なぜか世間の評価は高くない。知名度さえ、あまりに低い。いわゆる「萌え絵」のようなキャラクターデザインがあだとなったか、第一話の突然のスクール水着と、ある意味で痛々しいまなびの行動に引いてしまった視聴者もいたのか。このあまりにも優れたアニメを中途で投げ出してしまったのだとしたら、まことに残念なことである。
●設定
二〇三五年、少子化と価値観の多様化によって「高校に通うよりもフリーターになるほうが普通で、格好いい」とされている時代。若者は「バイト組」と「学生さん」とに二分していた。舞台は、郊外にある聖桜学園高校という女子校。よその高校が「有名企業への就職に的を絞ったり、資格取得に特化したり」しているなか、聖桜は伝統を重んじた昔ながらの校風を保っている。天宮学美(まなび)、稲森美香(みかん)、上原むつき(むっちー)、衛藤芽生(めぇ)、小鳥桃葉(もも)の五人は、二年A組の同級生。物語は、一学期の途中にまなびが転校してくるところから始まる。
●各話あらすじ
かなり詳しく、読み物としても読めるように努めた結果、特に後半の数話は熱が入りすぎてあらすじというよりはほとんど脚本のようになってしまった。作品の雰囲気が少しでも伝われば幸いである。
第一話『学美星人、あらわる』
(まなびが生徒会長になる)
「ばいばい学美星人」と書かれた黒板が映され、走る電車の中で泣いていたまなび(天宮学美)が車窓から顔を出し「はじまるよー!」と叫ぶ。
聖桜学園水泳大会の日。遅刻しそうなみかん(稲森光香)が、むっちー(上原むつき)と電話しながら星座占いの話をして、電話を切ったところにまなびが陸橋の上から飛び降り立ちはだかる。みかんを同じ学校だと目をつけたまなびが、エアボ(ちょっと浮いてるキックボード)に乗って学校へ向かう。まなびは水泳大会に「まなび式」という妙な泳法で飛び入り参加するも結果は無惨。しかし参加者たちの笑顔を誘った。
翌日は全校集会。生徒会書記のみかんが壇上で「この学園の生徒で、この学園が大好きであれば資格はいりません」と生徒会長の立候補者を募ると、転校してきたばかりのまなびが、いきなり生徒会長に立候補。生徒会顧問のしもじー(下嶋先生)から「だが、この学園の何を大好きと言えるかな」と問われたまなびは、突然聖桜学園の校歌(裏表紙参照)を歌い出す。「昨日、水泳大会でこの歌を聞いて思いました、わたし、きっとこの学園を好きになれるって。この気持ちじゃ、足りないでしょうか?」満場の拍手で、まなびは生徒会長として承認された。
第二話『まっすぐでゴー』
(生徒会室一度目のリフォーム。協働の楽しさを知る)
混沌とした生徒会室の大掃除を始めたまなびとみかん。むっちーも手伝いに来るが、まったく進まない。そこへ理知的でツンデレなめぇ(衛藤芽生)が現れ、「秩序」と「排除」をテーマに部屋を一掃。発掘した埋蔵金と、要らないものを校内バザーで売って得た売上と、しもじーからのカンパを元手にホームセンターで工具や木材などを買いこみ、生徒会室のリフォーム計画が始動。大道具製作に慣れている演劇部に救援を求めるも、断られる。しかしそこへ報道部のもも(小鳥桃葉)がやってきて全校にリフォーム作業の様子が中継されると、状況は一変する。生徒会役員ではないと主張するめぇに、ももが問う。
「じゃあ、何で手伝ってるんですか?」
「べつにいいでしょっ」
(このやりとりが、実は『まなび』全体のテーマに深く関わってくるのだが、詳しくは触れない。めぇの人物解説など参照。)
まなびのインタビューが最後に流されると、園芸部、手芸部、柔道部、演劇部、電気屋さんの子などが次々に現れ、ついに素敵な「全校生徒のたまり場的カフェ」である生徒会室が完成した。
それぞれがそれぞれの適性を踏まえた役割を担い、仲間として一つのことをなし遂げる「協働」のやりがいや楽しさというものを、聖桜学園の生徒たちが初めて感じた瞬間だった。
第三話『月曜日じゃ遅すぎる』
(学園祭のヴィジョンを五人が共有)
リフォームから二週間。バイオリン・デュオが自作のCDを置きに来たり、スイーツ研究会がやってきたりと生徒会室は大盛況。波に乗った生徒会は近隣校との「学園対抗ドッヂボール大会」を企画し成功を収めるが、その後に催された各校合同の「生徒会役員懇親会」は失敗に終わる。名門である愛洸学園生徒会長、角沢多佳子の発案により「学園祭」をテーマに話し合うが、聖桜は何も発言できない。不安を覚えたまなびたちは愛洸学園を訪れるが、その格の違いに打ちのめされてしまう。みかんは「愛洸さんのように立派な学園祭を開いて見せます」と宣言するが、まなびは思い悩む。自室でひとり「学園祭アイディアノート」を作り、表紙にみんなの顔を描いて、キラキラに飾り付けると、まなびの顔が希望で満たされた。まなびは思い立って、「月曜日じゃ遅すぎる」とみんなを学校に呼び出す。
「愛洸みたいな学園祭を目指すんじゃなくて、わたしたちが考えた、わたしたちにしかできない、世界にいっこしかない……できるよ! だってなにも決まってないんだもん! だって、まっしろなんだもん! まっしろ、ってことは、なんだってできるってことでしょ? わたしたちが書き込んでいくの、まっしろなノートに。世界にひとつしかない、わたしたちだけの学園祭!」
まなびがそう語ると、呼び出された四人の目に、天使のような羽を生やして空を舞うまなびの姿や、校舎の後ろに打ち上がる無数の花火のまぼろしが見えた。この瞬間、五人は「わたしたちだけの学園祭」というヴィジョンを共有したのだった。
第四話『プロモでゴーの巻』
(めぇがトラウマを克服し、心を開き始める)
めぇは、幼い頃に委員長に祭りあげられ、他の生徒から利用されて、あげくにウザがられてしまうという過去にトラウマを持っている。生徒会に入り浸るようになって少しだけ心を開き始めていためぇは、学園祭の「プロモ」を作ることを提案。ところが、「また体よく押しつけられて、利用されるのではないか」と思い込んだめぇは、みんなのところから飛び出して自室に引きこもってしまう。幼なじみで、件のトラウマの際にも支えてあげていたむっちーは、めぇの家に合い鍵で入り込む、「なあ、お前なんで高校に行くことにしたんだ? 本当は……」と声をかける。「知った口をきかないでよ」とめぇは言うが、やはり気になって、生徒会室のパソコンをハッキングしウェブカメラから様子をうかがう。そこには、苦手なCGへ必死に取り組んでいるみんなの姿があった。まなびはむっちーに「めぇにこだわる理由はなんなわけ?」と問われ、「わたし、めぇちゃんは何かを見つけるために学校に通ってるんだと思う。わたしは、めぇちゃんと友達になりたい。3年間というかけがえない時間を、めぇちゃんといっしょに。それで、それでいつか聞けたらいいな。探しているものは、見つかった? って」と答える。めぇは涙する。「あたしは、あたしの求めているものを見つけた。いや、もう見つかってたんだ……」
朝方、いつの間にか眠ってしまっていたみんなが生徒会室で眼を醒ますと、めぇの手によってCGは完成されていた。が、本番の全校集会でCGがフリーズ。絶体絶命かと思われたが、そこへ颯爽とめぇが登場。口頭で操作を指示しPCを修復、プロモの発表は成功に終わった。屋上で「勝利のポーズ」をとる五人。この日からめぇは、正式な生徒会役員となったのであった。
第五話『ふたりっきりの、夜』
(みかんとめぇの関係が縮まる)
まなびがおたふく風邪で入院し、生徒会はみかんとめぇの二人きりになってしまった。しかし二人ではどう接したらよいかわからず、みかんは思い悩む。むっちーに相談するも「あんたが歩み寄れば済む話だよ」と言われる。口じゃうまく言えなくても手紙ならば伝えられるのではないかと思いついてレターセットを買いに行くと、そこにはめぇがいた。「手紙、書くの? だれに」と問われ、「ま、まなびちゃんにっ」と答えると、めぇは「そう。私もよ」と言って去っていく。翌朝、みかんは手紙を書けないままで目を覚ました。「行きたくないなあ」と思っていると、母親から手紙が来ていることを告げられる。切手のない、直接投函されたらしいめぇからの手紙だった。学校へ走るみかん。めぇの待つ教室に飛び込み、それを境に二人の距離はぐっと縮まった。
みかんとめぇは、まなびのいないうちに「学園祭のテーマ」を決めることにした。図書館で調べものをして、時には口論さえしつつ、一生懸命考える。〆切の前日には二人っきりでこっそり学校に泊り込み、芝生の上に横たわって星を眺めつつ、お互いの手をしっかりと握りあった。そして翌朝、二人は最高のテーマをつくり上げていた。
「トモダチからナカマへ」
久々に登校したまなびはこのフレーズに感動して、二人を抱きしめた。泊まり込んだ二人をこっそり見守っていたらしいしもじーは、大きなあくびをひとつ。
第六話『シナモンシュガーレイズド・ハピネス』
(みかんとむっちーが友情を深める)
期末試験最終日の前日、みかんとむっちーは一緒に下校していた。いつもと変わらないように別れた二人だったが、実はむっちーはソフトの県大会でエラーをし、敗北の原因を作ってしまった直後だったのだ。そのことに気づいてあげられなかったことにみかんは気づき、入学式以来、自分のことを支えつづけてくれていたむっちーとの想い出を再生させる。みかんは思い立ってむっちーの家を訪ね、一緒に試験勉強をしようと持ちかける。
勉強の集中力が切れると、二人は夜中にこっそり家を抜け出してミスドに行ってだべり、カラオケではしゃぎ、プリクラを撮って、缶ジュースを飲みながら夜の町に微笑み、川を渡り海へ出て夜明けを待った。
テストが終わったあと、まなびがみんなに「ミスドに行こう」と持ちかけると、むっちーは「ミスドはちょっと」と言う。「なんでなんで?」と問われると、二人は声を合わせて「なんでも」と答え、笑いあった。
生徒会室を出るときに、転んで泣きそうになるみかんに、むっちーは優しく、入学式のときのように手をさしのべる。固く手を握りあう二人。そしてまた、声をあげて笑いあった。
みんなが去ったあと、机の上の名簿には「助っ人 上原むつき」と記されていた。
「わたしはいま、ハッピーです」と、みかんは独白する。
特別編『夏だ! まなびだ! 強化合宿だ!』
(みかんの悩みと、ももの夢がクローズアップされる)
もものナレーションで始まる。「いつのころか言われてきた。ジャーナリストは、歴史を書く。わたし、小鳥桃葉は、聖桜学園報道部員として、学生の特権とも言うべき特別な夏休み、それを描くことで報道という歴史の一ページを描くことを、試みてみようと思う。」
ももの家でプール掃除のアルバイトをしてお金を稼ぎ、合宿の費用に充てようと考えた聖桜生徒会。が、やはり集まると雑談や遊びになってしまう。
合宿に出かけても多難が続く。乗換駅を間違えたり、嵐に遭って目的地に着けなかったり。結局五人は予定していたペンションをキャンセルし、飛び込みで旅館に泊まることになった。旅館で秩序なくはしゃぎすぎたみんなはめぇに叱られる。「なんのための合宿なのか忘れてるんじゃないの? 猛省! ……今回の合宿は、学園祭に向けて意識の統一をはかることが目的よ。よって、みんなで遊ぶってのは……どう?」と、めぇが照れながら提案すると、五人は一丸となって遊んだ。遊び疲れて熟睡するみんなをよそに、みかんだけが寝付けないでいた。ジュースを買いに出ると、同年代の仲居さんと出会う。みかんとは違って高校に行かずに旅館を継ぐために働いているらしかった。「自分にはやりたいこともなくて、ただ漠然と高校に行っているだけ」という悩みを話すと、「そのために高校行ってんねやろ、焦ることないやん。そのうち見つかるて、やりたいことなんて」という返答を得、女将さんからは「学校に行く意味は、やりたいことを見付ける期間、ただそれだけやないと思うねんけどなあ」と言われる。
みかんには難しいことはわからなかったが、「(目的のペンションには行けなかったけど)この旅館もすっごく特別な想い出になるような気がしてるんだ。みんなと一緒だったから。みんなも、そう思ってくれたら嬉しいな」と布団のなかで独白する。
最後にふたたび、もものナレーション。「夏休み。学生の特権とも言うべき特別な夏休み。学生だけの、特別なひととき。その答えと言うべきものは、きっと、このフィルムの中にある」
そして最後の最後。聖桜ウェブで合宿のレポートを読んでいた聖桜の園長先生が、愛洸学園の理事長に電話をかける。
「ご相談があって、お電話さしあげました」
愛洸の理事長も、ちょうど聖桜ウェブを読んでいた。
「うかがいましょうか」
第七話『なつのおしまい(ばいばい)』
(みかんが「自分の道」を模索する)
聖桜ウェブ(生徒会のHP)リニューアルの〆切を翌日に控えた八月三一日、夏休み遊びすぎたツケを払うように過労で苦しむ一同。精神が崩壊しかけたところで、愛洸学園生徒会長の角沢多佳子が差し入れを持ってやってくる。実は聖桜学園は愛洸学園に合併吸収されることが決まっており、多佳子もそのことを知っていた。しかし多佳子は、まなびの学園祭に対する熱意と「イメージ」の力(すべてのお店の配置をまなびが暗記していたことなど)に圧倒され、聖桜の学園祭に「わたしたち学生にしかできないなにか」への答えを予感する。そして愛洸の理事長へ電話をかけるのだった。
その夜、聖桜生徒会は夏休み最後のイベントとして深夜のプールサイドで花火を楽しんでいた。はしゃいでプールに飛び込むまなび、もも、むっちー、めぇの四人。みかんは水に飛び込むことができなかった。もともと「みんなに置いていかれてしまう」ことへの不安を抱いていたみかんは、「あたしはいいよ〜」と言いながら、一抹の不安を覚える。「みんなが、自分を置いて踏切の向こう側へ行ってしまう」という、ずっととらわれ続けているイメージが、一瞬頭をよぎる。が、みかんは追随して飛び込むことはせず、プールサイドから打ち上げ花火を飛ばすのだった。四人は水から上がり、全員で線香花火を楽しんだ。そしてみかんの独白が入る。
「これは夢じゃなくて、ずっと続くんだって。そう思うとなんだか、嬉しくて嬉しくてたまりません」
線香花火が、ぽとりと落ちた。
第八話『たたかえ聖桜生徒会!』
(一般生徒の学園祭への無関心が強調される)
聖桜学園が愛洸学園に合併吸収されることが正式に発表された。理由は、生徒数確保のための対策をとらず、ただ伝統にあぐらをかいていたがゆえの「経営破綻」である。学園祭も取りやめになった。納得できない聖桜生徒会は、めぇの提案で署名運動を展開することになった。「みんなの声を一つにまとめるのよ!」……だが、醒めた生徒たちを前に、署名は思うように集まらない。帰り道、雨が降りだした。手を振って別れるまなびとみかん。まなびは、ふり返ってみかんの背中をじっと見つめる。
まなびが家に帰ると、兄の武文の恋人、貴生川鏡子が家にやってきていた。彼女こそ、愛洸学園の理事長その人であった。ショックを受けたまなびはみかんの家へ泊まりに行く。もちろん、「家出がしたかった」だけが理由ではない。帰り道のみかんの背中に、「何か」を感じたからだろう。
翌日、まなびは愛洸に乗り込み、学園祭中止の撤回を申し入れるが、「学生の本分から外れた、その場限りのお遊びだから」「他の生徒たちから学園祭を中止にしないでくださいという声が聞こえてこないから」を理由に聞き入れられない。が、全校生徒の七〇パーセントの署名を集めることを条件に学園祭中止を撤回する、と理事長は約束した。聖桜生徒会は、その目標に向けての覚悟を決め、動き出した。
第九話『わたしたちのうた』
(生徒会が自分たちの絆と、学園祭への想いを再確認する)
聖桜生徒会は署名を集めるために様々な方策を練るが、うまくいかない。生徒たちの興味は新しい制服などにうつっていった。むっちーやめぇの心も次第に学園祭から離れていき、ついに生徒会室に顔を出さなくなる。まだまなびとみかんしかいなかった、むかしの生徒会に戻ったようだ。そんなとき、全校放送で新しい校歌がCG付きで流れる。テーマは「未来」で、タイトルは『FLY TO FUTURE』。伝統を重んじる聖桜の校風とは真逆のものだが、キャッチーで今風な楽曲に生徒たちの反応は上々。そこへ、「謎の外国人」が電波をジャックし始めた。バレバレの変装をしたももが報道部室にバリケードを作り、映像を送っているのだった。これまでにももが撮りためた生徒会活動の様子が、旧校歌に乗せられて流れてくる。役員の自己紹介映像で、みかんが「好きな言葉は友達……」と言ったところで、バリケードが破られ映像と音声が元に戻る。泣き出すみかん。「このまま、このままなにもできないまま、みんなと離ればなれで終わっちゃうなんて、やだよ……っ!」
教室にいて映像を見ていためぇは、そばにいるむっちーに「わたしたち、ここにいて、いいのかな?」と問う。むっちーが「だなっ!」とうなずき、二人は走り出す。それを見たしもじーが「ふっ」と笑う。取り押さえられているももの横を二人が通りすぎ、ももも、微笑む。二人の脳裏に、様々な思い出がフラッシュバックする。息を切らして立ち止まってしまうめぇに、手をさしのべるむっちー。二人の手のひらは固く結ばれて、また走り出す。生徒会室に着き、むっちーが「まなびー!」と叫ぶ。「なぁ、うちら……」と、話し始めたむっちーの言葉を、みかんが遮る。「やろう? 学園祭、やろ。わたし、みんなといっしょに、大切なみんなと、なにかしたいの。だから、学園祭やろっ。今、このときに、わたしたちにしかできないことを、やろうよ!」
「みかんに言われちゃ、しょうがねえよなっ」
四人は手のひらを重ね合わせて、微笑みあう。「まっすぐ、ゴー!」そして署名活動は、また続いていく。
かつて(二〇〇五年頃)学生運動をしていたという園長先生が、その様子を見ながら回顧し、しもじーに話す。「無駄じゃなかったと思います。学校を変えようとして、変えることができなかった。でもそれは無駄ではなかったと。先生、わたしね、あのときいっしょに、学生寮にたてこもった仲間の顔と名前、ぜんぶ思い出せます。それにね、ほら……」
「署名、いいかな?」
三人の生徒たちが、まなびたちに声をかけていた。
第十話『集う仲間たち』
(生徒会室二回目のリフォーム。学園祭のような「協働」を楽しむ)
署名の人数はじわじわ増えるも、まだ三二パーセント。猶予はあと一日半を残すのみ。そんな折り、「超自然的な力」が働いたのか、改修中の時計塔が突然爆発。生徒会室も一緒に壊滅してしまった。新しい生徒会室としてしもじーが提案したのが、かつて園長先生が住んでいたという旧学生寮「桜園寮」だった。聖桜生徒会はまず、寮の大掃除とリフォームを試み始めた。
ホウキを振りまわしながら「みんなでやる学園祭は楽しいに決まってる」と主張するまなびに、めぇが異議を唱える。「以前のわたしは、楽しいに決まってるなんて言われても理解できなかったと思う。今は、わかる。それはわたしが、仲間となにかをすることの楽しさを知ったから。『友達から仲間へ』……最高のキャッチコピーだと思ったけど、その意味がわかるのはわたしたちだけで、みんなにまでは届いていなかったのかもしれないわね」めぇの言葉に、みんなは寂しげにため息をついた。
そこに現れたのが演劇部の部長だった。「今回はどういうプランで?」前回のリフォーム(第二話)に参加してくれた人たちを中心に、ぞくぞくと人手が集まってくる。次第に外は暗くなっていったが、園長先生の計らいで発電機の使用も許可され、明かりもついた。大掃除とリフォームは夜遅くまで続き、外では焼きそばが作られたりと、ほとんどお祭り状態。新たな人間関係も育まれていった。「これって、学園祭みたいだよね」と、みかんが言う。まなびはうなずき、二人は笑いあった。
署名運動決済日の当日。「七〇パーセントの署名、集まったんでしょうか」と、心配そうに愛洸の生徒会長は理事長に問う。
「いいえ。……七六パーセントよ」
第十一話『わたしにもみえるよ』
(学園祭前日〜当日)
ついに学園祭を明日に控えた夜、「今日、帰りたくない」とみかんが言う。みんなはうなずき、学園祭の色に染められた学校の中でその夜を過ごした。「いまならみえるよ。わたしにも、みえる」みかんはまなびに語りかける。
「おっきな、おっきな宇宙のちっちゃな星に、聖桜学園という名の高校がありました、そしてその高校の屋上に、小さな小さな生徒会室がありました。五人の女の子たちが、笑ったり、怒ったり、泣いたりしながら、そこで毎日を過ごしました。生徒会室は今はもうなくなってしまったし、女の子たちはいつか学校を卒業していきます。でも、あたし、忘れないよ。この夜のこと。絶対に忘れない。みんな、大好きだよ」
そして学園祭当日。愛洸の理事長もやってきた。「私は少し、先を見すぎていたのかもしれない。この少子化の時代にいま、楽しいだけの学園祭をやる意味があるのか。もっと他に価値を見いだせなければ、学校に通う意味はなくなってしまう。そう思っていた。でも……」
バンドの演奏が鳴り響く。『桜舞うこの約束の地で』が演奏される。本部に待機するまなび、みかん、めぇの正式な生徒会役員たちは、学園祭に参加することができない。愛洸の角沢多佳子が、目を閉じて、学園祭に耳をすませ始めた。三人もまねをする。多佳子がみんなに、問いかける。
「きこえる?」
「悪くないわね」
「こういうのもあり、かな」
「ありがとう。あなたがわたしに、教えてくれたのよ、まなびさん。イメージすること。それを形にすること。今は、わたしにもわかる……」
暗くなって、本部には四人の姿はなくなっていた。代わりにしもじーと園長先生が座っている。「いいんですかね、生徒主導の学園祭に、教師が手を貸すというのは」「いいんじゃないんですか、最後くらい」「ですね」そして二人は、昨晩眠れなかったのか、大きなあくびをいっしょにひとつ……。
ももに手を引かれ、ステージ前に連れてこられるまなび。バンドのヴォーカルが「わたしたちがいちばん、ありがとうを言いたいのは、天宮学美さん、あなただよっ」と言うと、ライブに来ていた生徒たちもまなびへあたたかな視線を投げかける。ももに背中を押され、ステージに上げられるまなび。「それでは、生徒会長に一曲歌って、シメてもらいましょうっ」戸惑いつつもまなびが歌ったのは、もちろん『聖桜学園校歌』だった。
ロック調にアレンジされた校歌に盛り上がる観客。そして、打ち上がる花火。あの日(第三話)に五人が共有した、あのままの光景がそこにあった。
「でも……」愛洸の理事長が言葉を続けた。「彼女たちは何の見返りもなく必死になってこの学園祭を作り上げた。社会に出れば必要となってくるお金や責任、そういうものではなく、ただ純粋に一生懸命になれたり、反抗したり、夢中になれるのは、学生の時だけ。なのではないかしら」
別の場所で、園長先生もしみじみと語る。「確かに……今年と去年までの学園祭の何が違うのかと言われれば、そんなに変わっているわけではありません。でもやはり、今年の学園祭は特別だと思うんです。なぜなら、生徒たちが自分自身で勝ち取った、聖桜学園最後の学園祭だから」
「みんな、だーいすきっ!」
まなびが笑った。
最終話『桜色の未来たち』
(卒業、そして再会)
……最終話ということでいきなり筆者が顔を出してしまうが、リアルタイムでこの作品を追っていて、十一話を見たときに、「え、こんなことやっちゃったら、もう最終回でやることないじゃん!」と本気で心配になった。このストーリーでやれることは、やり尽くしているような気がした。しかし『まなび』は、本当に良い意味でそれを裏切ってくれた。すばらしい最終回が用意されていたのである。
まず巧いのは、序盤の構成が第一話とまったく同じだということ。
「さよなら 第82期聖桜生徒会!」と書かれた黒板が映し出され、次に映るのは走る電車。その中で泣いていたみかんが窓から顔を出し、「ばいばーい!」と叫ぶ。
第一話では、「ばいばい学美星人」と書かれた黒板に、走る電車、泣いていたまなびが車窓から顔を出し「はじまるよー!」と叫ぶ、という始まりだった。
そのあとのシーンも、遅刻しそうなみかんが、むっちーと電話しながら星座占いの話をして、電話を切ったところにまなびが立ちはだかり、陸橋の上から飛び降りてくる……この流れが、セリフまでほとんど同じで再現される。ただ違うのは、彼女たちが深い深い友情で結ばれた友達になっている、ということだけである。ゆえに、まなびが現れたときのみかんは、「驚き」や「戸惑い」ではなく、もちろん「笑顔」という反応を返す。
二〇三七年三月十日、第82回聖桜学園卒業式。新しい生徒会室(おそらくまなびたちがリニューアルした旧学生寮内。取り壊しは中止となったと思われる)では、下級生がまなびたちを送るための飾り付けをしている。外では、桜舞い散るなか、それぞれの進路が語られる。むっちーは実業団チーム、ももは専門学校、めぇは大学。まなびはフリーターである。「学生はもう全力で経験しました、だから今度は全力で働いてみたいんだっ」
そしてみかんは、アメリカのオレゴンへ留学する。
卒業式が終わり、「第82期聖桜生徒会反省会」が、屋上で五人だけで開催された。変わらないノリで、反省会の体はまったくなしていないが、相変わらず楽しそうである。最後のシメを任されたみかんは、自身の反省を述べながら突然泣きだしてしまう。
「私の反省は、自分から動くことができなかったことです。生徒会にいちばん長くいるのはわたしなのに、いつもみんなに引っぱってもらって、あとからついて行くだけだったような気がするんだ。だから、だからね……。あ……あれ。あれ、おかしいな。泣くつもり、ないんだけどな。おかしいな……。いつも、いつもみんなに引っぱってもらって、あとからついていくだけだった。だから、アメリカに留学して、自分できらきらわくわくを見つけられるようになろうって。でもやだようっ、これでおしまいなんてやだあっ。これで終わりなんて……もっと学校にいたいよっ、もっとみんなといたいよう……。わたし、わたしやっぱりアメリカに行くの……」
「みかんちゃん!」
まなびが遮って、首を振る。
「まなびちゃん。ずっと一緒に……」
まなびは、首を振る。そして、しぼり出すように言う。
「行かなきゃ。行かなくちゃ。どこにいたって、どんなに離れてたって、いっしょだよ。あたしたちは、ずっと」
みんなは微笑む。
「みんな……」
「終わりじゃないよ。終わりじゃない。始まりなんだっ。だから、行かなくちゃ。ねっ」
強がって言うまなびの胸に、飛び込んでいくみかん。みんなは微笑みながら、抱き合う二人の姿を見つめる。
「わたしたちはずっといっしょ。口で言うのは簡単だけど、やっぱり怖い。でも、わたし信じてみるよ。ずっといっしょだ、って。今までのことを思い出せば、信じられる。だから、待ってて。きらきらとわくわく、いっぱい見つけて帰ってくるからねっ」
空港へと向かう車の中に、私服の四人がいる。運転するのは免許を取りたてのめぇ。搭乗まであと十五分だが、渋滞とエンストで前に進まない。みかんがゲートの前で立ちつくしていると、四人の声が聞こえる。「みかちーん」「稲森さーん」「みーかーん」「みかんちゃーん」
みかんの前に立ち、しばらくは、肩で息をする四人。呼吸が落ちついても、言葉はない。一列に並んだ四人は、ただ右手でにぎった拳を、みかんのほうへ突きだしただけだった。まっすぐの拳、まっすぐの瞳を、四人はみかんに向けていた。
それを見てみかんは、思う。
(そう、これは終わりじゃない。始まりなんだ。これから、すべては、ここから、はじまるわたしたちの物語!)
音楽が高く鳴る。
スローモーション。
きびすを返して歩きはじめるみかん。
ゆっくりと拳をおろし、みかんに背をむける四人。微笑をたたえながら、まっすぐに歩いていく。
みかんは笑顔とも、泣き顔ともつかない表情をして、ゲートへと向かう。
五人とも、けっしてふり返ることはない。
飛んでいく飛行機を、みんなは駐車場で見送った。
機内で第82期聖桜生徒会の写真を見つめるみかんは、隣に座った外国人に声をかけられるが、つい苦笑いをして、顔をそむけてしまう。しかし、すぐに勇気を出して自分から、話しかけてみる。
エンドロール。
左上の小窓に、みんなのその後が、映し出される。
ホームランを打つむっちー。
聖桜学園へ赴任する武文。
大学で肩を並べて勉強する、めぇと角沢多佳子。
旅をしながらカメラを回すもも。専門学校で、「学園ゆーとぴあ まなびストレート!」というドキュメント映画を製作したらしい。
お花屋さんでバイトするまなび。エア・バイクに乗って、……まっすぐ、ゴー!
――一年半後、夏。
みかんが一時帰国した。
踏切が鳴っているが、いまはみんなと同じ側にいる。
置いていかれたりはしない。
第五話で、めぇのいる教室へ飛び込んだときのように、みんなのもとへと足を踏み切って、跳ぶ。あのときと、まったく同じアングルから、それが映される。
五人は、ももの家の会社が発明した「一晩で消えるスプレー」を手に手に持って、学校に忍びこんだ。
オープニング曲『A Happy Life』を、五人で歌っている音源が流れ、オープニングと同じ映像が流れる。テレビシリーズで三ヶ月間流れ続けていたこの映像は、実は最終話のここに位置する場面だったのだ。
学校中に大きく、スプレーされた言葉は、「A HAPPY LIFE」
教室の黒板には、「Do you enjoy your happy life? まっすぐGO!! 題82期聖桜生徒会」と落書きがされていた。
そして、五人は視聴者に背をむけて、どこまでも続いていく長くまっすぐな道を、歩き出し――。
完
●人物解説
◎天宮学美(あまみや・まなみ)
まなび、CV…堀江由衣
聖桜学園第82期生徒会会長。座右の銘「まっすぐゴー」が示すとおり、猪突猛進でストレート。前向きな性格であるが脳天気ではなく、悩むときはちゃんと悩む。親の都合で、友達ができたと思ったらすぐに転校するということをくり返していた。現在は兄の武文と二人暮らしで、卒業後も引っ越しはしていない。
【卒業後の進路→フリーター(花屋さんでバイト)】
まなびについて語ることは、実はそう多くはない。まっすぐで屈託のないまなびは、目に見えて成長してもいないし、さほど変わってもいない。『まなび』という作品は、天宮学美という北極星を中心にして回る天体のようなもので、彼女だけはずっと変わらずにそこにいる。時に失敗すること、思い悩むこともあるけれど、基本的にはまなびの言動、行動は第一話から完成されていて、周りがそれに合わせて変化していく。それが『まなび』なのだ。
第一話を見てまなびのことを「痛い女だ」と思う視聴者がいるとしたら、だからそれは正しいことかもしれない。『まなび』という物語の始まりにおいては、まなびだけが「まっすぐゴー」の世界に住んでいる。「わくわくきらきら」の世界に住んでいる。「みんなでつくる学園祭は楽しいに決まってる」と言い切れる世界に住んでいる。他の登場人物たちは、まだそこにたどり着いてはいない。だから、第一話のまなびは浮いている。気恥ずかしいような、痛々しいような気分にさせられてしまった視聴者も、いたかもしれない。
もしもあなたが第一話のまなびのテンションに「引いて」しまったとしたら、それはまなびと他の登場人物たちの温度差が原因であり、またあなたとまなびとの温度差が原因でもある。ところがこれらの温度差は、一話一話と見ていくうちに、次第に減じてなくなっていく。他の登場人物も、視聴者も、みんなまなびのテンションに染められてしまう。
まなびは、そういう力を持った女の子だ。誰もがまなびに惹かれ、影響を受けていく。いち視聴者としての筆者とて、あなたとて、例外ではない。だからぜひ、『まなび』は最終話まで見てほしい。登場人物たちが、そして作品を味わう自分自身が、まなび色に染まっていく様を感じてみてほしい。
「働くことを選ぶか、学生を選ぶか。そういうふうに悩むパターン自体、天宮さんには当てはまらないのかもしれないわね」
最終話のめぇのせりふである。
まなびにかかれば、与えられた選択肢から二者択一的にえらぶという近代的な行為そのものが、無効なのである。まなびはいつだって、自分自身の信念だけに従って行動する。ちゃんと考え、悩んで、自分なりの「まっすぐ」を信じて動く。「AかBか」という、二元論的な価値観すら否定する。大事なのは「わくわく」と「きらきら」だ。
「自分の頭でものを考える」というのは、「与えられた選択肢からえらぶ」ということとはまったく違う。そのことをまなびは、よくわかっているはずだ。だけどまなびは、決していわゆる「勉強のできる頭の良い子」ではない。新しい選択肢を導き出すことが容易にできるような、器用な子でもない。だからまっすぐになんでも、経験しに行くのである。学生を精一杯経験し、フリーターも精一杯経験したあと、まなびは「まっすぐ」どこに行くのか? それはひょっとして今後の日本社会を考えていく上で、とても大事なことなのではないかと思う。筆者も、今はまだ答えが見えないが、「まっすぐゴー」を信条に、わくわくときらきらを追い求めながら生きていけば、いつかわかる日がくるのかもしれない。
◎稲森美香(いなもり・みか)
みかん、CV…野中藍
聖桜学園の第82期生徒会書記。前生徒会長が転校してしまったため、たった一人で生徒会役員を務めていた。消極的で気が弱く、天然ボケ。一人称でナレーションを入れることが多く、また最終話の主役でもあるため、裏の主人公といっても差し支えない。
【卒業後の進路→アメリカ留学】
あらすじを読んでもらえばわかるように、みかんはすべての主要キャラクターと明確に深い友情関係を結んでいる唯一のキャラクターである。ももとの関係だけはあまり詳しく描かれていないが、第二話のホームセンターのシーンでみかんともも(奇しくも果物コンビ)が同じ布団で寝ているシーンがあり、それだけでも他のキャラクターに比べればももとの関係はまだ濃いほうなのである。
ももを除いて考えれば、残った四人はほとんどの組み合わせで明確に友情関係が描かれている。ただ「まなびとめぇ」「まなびとむっちー」に関しては、あまり具体的には描かれていない。前者は、第四話でまなびの「めぇちゃんと友達になりたい」というせりふに対して、めぇが涙で応える、という場面は描かれているが、あくまでもカメラを通してのことで、おそらくまなびはそれをめぇに聞かれていたということを知らない。後者は特筆すべきエピソードとしてはないと思われる。
「まなびとみかん」は、まなびがみかんの家に泊まりに行ったり(その伏線として、帰り道のみかんの背中を無言で見つめる、という描写がある)、最終話でみかんが泣きながらまなびと抱きあったりと、かなり深い絆が結ばれている。
もちろん「明確には」描かれていないというだけで、ももを含む全員が、おそらくあらゆる組み合わせにおいて、深い友情を結んでいるということは言うまでもないし、また「もも」という一見宙ぶらりんな存在を許容し、理解してしまうような五人の絆というのは、むしろ深いものだとも思える。
みかんが生徒会の中で特別であるというのは、最終話みんなが空港に駆けつけるシーンで、「みかちん」「稲森さん」「みかん」「みかんちゃん」と、全員が全員、違う呼び方で呼ぶというところで象徴的に表れているように思う。みかんは、四人全員とそれぞれ違った、独自の関係を結んでいるということが呼称によって表現されているのだ。
ただ、これは表現の問題でしかなく、「ほかのキャラだってそうなんじゃないか」と言われれば、おおむねは同じように呼称がばらつくのだが、ほかのキャラにはそういうわかりやすい場面がない。ほかの四人に一人ずつ名前を呼ばせる、というシーンをみかんに対してだけ描いたのは、やはり意味があることだろう。
それでも一応ほかのキャラについて考えてみると、まなびはかろうじて「まなびー」「天宮さん」「まなび」「まなびちゃん」と、一応呼称はすべて分かれる。むっちーは「むっちー」「上原さん」「むっちー」「むっちー」。めぇは「めぇちゃん/めぇたん」「めぇちゃん」「めぇ」「めぇちゃん」、ももは「小鳥さん」「もも」「ももちゃん」「ももちゃん」になる……まあ単純な話、まなびとみかんが他の三人を呼ぶときの呼び方が一緒だからこうなる、というだけの話かもしれないが、名前について考えてみるのは面白いので紹介してみた。
みかんを語る際に外せないエピソードはやはり、第五話と第六話である。第五話でみかんは「積極的になること」を少しだけ獲得し、第六話で「だれかと支えあうこと」を覚えた。
第五話では、めぇとの友情を成立させていくさまが描かれる。めぇからの手紙を受け取って学校まで走り、教室に飛び込んでいくシーンは全話通しても屈指の名場面。
ぎこちない接し方しかできなかった二人は、「手紙ならうまく言えるかもしれない」と思った。お店にレターセットを買いに行くと、偶然相手がいた。そこでもまだ、お互い素直になれないで、「あなたに手紙を書こうとしていた」ということが打ち明けられないで、誤魔化してしまう。だけど、みかんとめぇは、実はまったく同じことを感じていた。考えていた。二人とも、ただ仲良くなりたかっただけなのだが、不器用でできなかった。
めぇは頭がよくて理知的な子だから、自分の気持ちを手紙に託すことができた。しかしみかんはまだ言葉で自分の気持ちを表すことができず、手紙が書けなかった。書けなかった代わりに、みかんは行動する。
ずっと積極的になれなったみかんが、めぇの気持ちに応えるため、動き出す。走って急いで学校に行って、めぇの待つ教室へ向かう。
めぇは、窓際の席に照れながら座っている。教室の入り口の前で、一瞬立ち止まるみかんの足元が、大きく映される。意を決して、勇気を出して、みかんは教室と廊下との敷居を「飛び越える」。そして持っていためぇからの手紙が、はらりと手を離れて、「教室の外側」に落ちる。
この「敷居」が、二人の世界を断絶していた境界の象徴である。
「敷居を飛び越える」ことで、みかんがめぇの想いに応えて、彼女の世界の中へ「積極的に」飛び込んでいくことが表現されている。
手紙を「教室=めぇのいる世界」の外に落とすことで、「みかんとめぇの関係には、もう手紙なんて要らないんだよ」ということを伝える。
素晴らしい演出だ。
それから二人の距離はぐっと縮まって、数日のうちに、夜の学校で芝生に寝転がりながらぎゅっと手をにぎりあうまでになった。
この「手をにぎる」というモチーフは、『まなび』の中で幾度となく描かれる。
『ふたりはプリキュア』で、「プリキュア・マーブル・スクリュー」などの必殺技を撃つ際になぎさ(キュアブラック)とほのか(キュアホワイト)が固く手のひらを結びあうが、あれはもちろん肉体的・精神的な交歓を意味するものだ。「手をにぎる」という行為によって二人の体と心はシンクロし、強力な合体攻撃ができるようになる。体と心が同時につながるような、美しい手のつながり方というものが、ある。そのような「手をにぎる」は、ふたりの友情の証でもある。それは『プリキュア』だろうが、『まなび』だろうが同じことだ。『パーマン』だってそうだ。以下の泣きメロには、聞くたびごとに涙腺がゆるむ。
いくよ まってて ともだちに なろう 手と手 ココロとココロ つないで
みんなで 飛ぼうよ あの空へ
パーマン パーマン パーマン
きたよ ぼく パーマン
パーマン」
(『きてよパーマン』作詞:藤子・F・不二雄)
みかんとめぇ(第五話)が、むっちーとみかん(第六話)が、めぇとむっちー(第九話)が、手と手を結ぶときに、友情は確認される。
OP映像(または最終話のラスト)で、五人が手を重ね合わせるとき、あるいは第九話の終わりに、ももを除いた四人が手を重ね合わせたときにも、「心身の交歓」と「友情の確認」はもちろんなされている。『まなび』は、明らかに「手のひらから伝わるもの」に大きな比重を置いている。
先述したように第六話でも「手をにぎる」は出てくる。むっちーとみかんである。しかしこの話についての解説は、むっちーの項に譲ることにする。また第九話において、むっちーとめぇが手をにぎりあうシーンについては、めぇの項を参照。
みかんは、特別編で詳しく語られているように、悩みを持っていた。「やりたいことが見つからない」という悩みである。「みんなに置いていかれる」ような気がして、「追いかけても踏切に遮断されてしまう」夢を見たりもした(第七話)。これについてはわかりやすく、くり返し語られているので、これ以上深くは触れない。語るべきは、第七話ラストを飾る花火のシーンである。
夏休み最後の夜。花火をして高まったテンションでプールに飛び込んだ四人と、それを尻込みするみかん。以前の、たとえば初めて愛洸学園を訪ねたころ(第三話)のみかんであれば、「わたしもみんなと同じように、水に飛びこんではしゃぎたい」と思っただろう。なぜならば、みかんは愛洸学園の角沢多佳子に、「わたしたちも負けないように、勝てるはずないですけど、がんばって、愛洸さんのように、立派な学園祭を開いてみせますっ」と言っていたのだ。
「プールに飛び込んだ四人とみかん」の構図は、そのときの「愛洸学園と聖桜生徒会」の関係にとても似ている。目標とするものの真似をして、それに追いつき追いこそうとする、という数直線的な考え方を前提にしていると、「わたしもプールに飛びこまなきゃ」や「愛洸さんのような立派な文化祭を」になる。
しかし、まなびに学園祭のヴィジョン(第三話あらすじ参照)を見せられ、夏休みじゅうせいいっぱい遊び、せいいっぱい学んだみかんは、もうそのような考え方からは卒業している。だから、プールサイドで一瞬だけ「踏切に遮断されて置いていかれる」というイメージを思い浮かべてしまったすぐあとに、みかんは静かに首をふったのだ。首をふって、花火を打ち上げた。
この花火は、夏休みの最後を飾る華々しい「わくわくきらきら」であるが、それだけでなく、なによりも「みかんの決意表明」という意味合いが強い。「みんなのまねっこするんじゃなくて、わたしにしかできないことをやろう」という、気持ちの表明。だからみかんはプールに飛びこまず、自分だけの花火をあげたのだ。みかんが「アメリカに行く」という宣言をしたのは、おそらく二年生の冬だった(最終話、学年を表す制服の肩のラインが二本になっている)が、夏のおしまいの時点でもう、方向性は見えていたということになる。
みんなも、無意識にでもみかんのその気持ちを察したのだろう。すぐに水から上がって、線香花火を始めた。この線香花火は、みかんが自分の意志を持ちはじめたことで役割を終えた、はかない夏を終わらせるための、五人の静かな儀式であった。
それから、みかんの成長は著しい。第九話の終わりに再び集まった聖桜生徒会メンバーに「学園祭、やろっ」と口火を切ったのは、みかんだった。それからアメリカ行きの決意をし、空港で仲間に背をむけて歩き出し、機内では外国人の女性と積極的に会話をした。
はじめに外国人の女性に話しかけられたとき、みかんは一度、思わず目をそらしてしまった。このとき、みかんは五人で写った写真を眺めている。これは、前生徒会長が突然転校して、生徒会にひとりぼっちになってしまったみかんが、中学の(なぜか高校と書いてある)卒業式の写真を見ながら泣いていたという回想シーン(第六話)の再演である。かつてはむっちーの胸でただ泣き続けるだけだったみかんが、この機内のシーンでは、四人から勇気を受け取ったかのように、もう一度女性のほうを向いて、自分から話しかけている。
最終話の反省会では弱音を吐いていたが、もう充分に、みかんが成長していくための材料は揃いきっていたのだ。
そして一時帰国するまでの一年半のあいだに、みかんは「自分の頭で考えて、ちゃんと積極的に行動できる」人間に成長していたのだろう。いま、四人は踏切の「手前」で、みかんのほうを向いて立っている。置いていかれるとか、追いかけるとか、そういう考え方自体が、ここではもう意味を失っている。五人はいま、同じところにいて、そしてこれから同じ「まっすぐ」という道を、それぞれの足取りで歩いていくのだ。
◎上原むつき(うえはら・むつき)
むっちー、CV…井上麻里奈
正式な生徒会役員ではないが、名簿には「助っ人」として名前が刻まれている。スポーツ万能、普段はソフト部など各運動部の助っ人として活躍する。元気で頼れる姉御肌で、少々男っぽいところもあるため、下級生の女子から大人気である。やたら顔も広い。四人姉弟の長女。
【卒業後の進路→実業団チーム】
むっちーは、実はもっとも深い内面を背負わされているキャラクターなのかもしれない。むっちーは長女で、下に手のかかる弟が三人もいる。「頼りがいのある姉御肌」になってしまうのはごく自然なことだっただろう。そして、仲の良いめぇやみかんのことも、ずっと支え続けてきた(第四話、第六話など)。ソフト部をはじめ、各運動部から「助っ人」として尊ばれるが、どこにも所属はしていない。
むっちーはずっと、どこに行っても「しっかりものの長女」として、他人を支えるばかりの人生を歩んできた。家庭でも友人関係でも部活でも、いつでも「支える」側にいた。第五話では、みかんとめぇから同時に相談を受けた。
そんなむっちーは、ソフトの県大会で自身の痛恨のエラーによる敗北を経験しても、誰に頼ろうとするでもなく、愚痴りもせず、寂しそうな顔ひとつしないで、強がって笑っている(第六話)。まだ高校二年生の女の子なのだから、本当は辛くてたまらないに決まっているのに。
それに気づいてあげたのが、みかんだった。みかんは傷ついているであろうむっちーのそばにいてあげるために、試験の前日に彼女の家に泊まり込みで勉強をしに行った。休憩と称して家を抜け出し、ミスドに行って喋っていたとき、「今日は学園祭の話はなし!」とみかんは言った。みかんは、「生徒会の仲間として」むっちーと話すのではなく、ただ単純に「友達として」話したり、遊んだり、はしゃいだりしたかったのだ。その気持ちがきっと、むっちーの心を解放させ、傷や悩みやストレスも解消させてあげる契機になったことだろう。
二人は夜通し、弾けるように遊んだ。そして静かに夜明けを待っていた。
「支えるだけ」だったむっちーと、「支えられるだけ」だったみかんが、もしかしたら初めて「支えあう」対等な友達としてつきあうことのできた日だったのではないだろうか。
第六話の最後に、生徒会室で転んだみかんに対してむっちーがさしのべた手は、みかんを「支える」ための手ではない。なぜならば、にぎりあったその手と手は、二人が歩き出してからも離れることがなく、笑い声とともに揺れていたからである。
※むっちーの項が短いような気がするのは、語るべきことがみかん・めぇの項に分散してしまっているからであって、筆者はむっちーのことを死ぬほど愛している
◎衛藤芽生(えとう・めい)
めぇ、CV…平野綾
聖桜学園第82期生徒会会計。クールで賢く素直じゃない、絵に描いたようなツンデレ。むっちーとは幼なじみ。幼少期からトラウマを負って他人を遮断してきたが、まなびたちとの邂逅によって克服し、少しずつ心を開くようになる。照れ屋なためか、卒業するころになってもみんなのことを「○○さん」と呼びつづけた。
【卒業後の進路→大学進学(早稲田っぽい)】
めぇは、わかりやすくツンデレである。記号としてわかりやすい。だからといって描き方が雑であるかといえば、まったく違う。「典型」の、しっかりしたキャラクターだからこそ、ベタのみに偏らぬよう注意しながら、きめ細やかに描かれている印象がある。
まずは第一話の冒頭、水泳大会の日。めぇは大会には参加していないが、なぜか学校に来ていて、自習をしている。『まなび』という作品は、こんなところにもちゃんと意味を持たせているのだ。めぇはなにも、勉強が好きだから、学校が好きだから、真面目だから自習しに来ているのではない。ただ「水泳大会がやっているから」来ているのだ。「ばかばかしい」と言いながら、その輪のなかに入っていくことをどこかで望んでいるからこそ、学校に「来てしまう」のである。
そして翌日の登校時、「衛藤さん」と声をかけられためぇは、頬を赤くして目を揺らし、ほんの少しだけ口を動かした。が、声にはならず、そのまま歩き去ってしまう。ちょっと気を抜いていると流れてしまいがちなささやかな演出だが、めぇというキャラクターの抱いている葛藤を短い時間と少ない枚数で端的に描いている。
第一話の中盤から第三話までは、「〜じゃないんだからねっ」といった定型句に代表されるような、典型的なツンデレ的態度を主にとる。問題はその後である。
第四話では、めぇの幼少期のトラウマが冒頭から描かれる。サイケな色彩とシュールな演出が非常に怖い。小学生のころ、優等生だっためぇは委員長に祭りあげられ、よかれと思って務めを果たしていたところ、いつの間にかいいように利用されそうになったり、「ウザい」とまで言われるようになってしまった。それでめぇは他人に心を開くのが怖くなったのだろうと思われる。掃除を押しつけられて、泣きながら机を運ぶめぇを支えていたのは、やはり幼なじみのむっちーだった。むっちーはなにも言わないで、無言で掃除を手伝ってあげていた。
まなびたち生徒会に対して心を開きかけていためぇだったが、CGによるプロモ制作を任されそうになってトラウマが発動する。この、めぇのトラウマを描く演出がまた非常にすばらしいので、ぜひ本編で確認してほしい。
めぇは、深い深い絶望の淵にいて、それでも希望を探そうとしている。人間に対しての絶望を前提としながらも、でも「そんなの絶対に違う」とどこかで思っている。人間を信じたいという気持ちを持っている。だからツンデレという二面性が性格にあらわれる。めぇが完全に絶望に堕ちないのはおそらく、むっちーという希望があったからだろう。いま、その希望は四倍にもなっている。むっちー、まなび、みかん、もも。それで少しずつ少しずつ心を開いていく。
第五話ではみかんとの友情を育ませるが、詳細はあらすじと、みかんの項を参照のこと。一つだけめぇに寄りそって書くべきことは、二人で学校に泊まり込み、芝生に寝っ転がって星を見る場面。
地面から空を見あげためぇは、目を見開いてハッとする。おそらく、彼女は寝転がって星空を見あげたことが一度もなかったのだ。ハッとしてから、めぇはみかんの顔を見る。対人関係をひたすらに避けつづけてきた彼女は、たぶん「他人の目線からものを見る」という経験も極端に少なかったのだろう。みかんが見ている美しさを自分が共有できているということへの感動も、この驚きの中には含まれていただろうと思う。
次に第九話、ももの電波ジャックのあとに、むっちーとめぇが生徒会室へ走っていく場面。これは第五話でみかんがめぇの手紙を持って教室に走ってきた場面を逆転させたものだと思えばいい。「わたしたち、ここにいて、いいのかな?」と自分から切り出せためぇは、第五話でみかんが獲得した積極性と似たものを手に入れたのではないだろうか。
そして何より、この回でめぇは、むっちーの差しのばした手をためらわずににぎる「素直さ」をも獲得している。ここでの「素直さ」の獲得は、本作におけるめぇの最大の成長である。
最終話のころにはめぇは、「クールでちょっと怒りっぽい、たまにお茶目な照れ屋さん」くらいの性格になっているように思える。はじめのころのとげとげしい感じは、もう見られない。むっちーに「意外に素直な反応だねー」と言われて照れるめぇの姿は、純粋にかわいい。
◎小鳥桃葉(おどり・ももは)
もも、CV…藤田咲
正式な生徒会役員ではなく、報道部に所属。とにかくなんでもカメラにおさめたがる。神出鬼没で挙動不審な不思議キャラだが、胸の内に秘めているものは底知れない。六〇もの企業を傘下に置く小鳥財閥の令嬢で、正真正銘のお金持ち。自宅には巨大なプールがありメイドも雇っている。下に妹が一人。
【卒業後の進路→東京デジタルジャーナリスト専門学校】
ももは、最後に語るに相応しい『まなび』という作品の黒幕である。実は、筆者はこの項が書きたくてこの冊子を書き始めたのだ。ももはしたたかな女である。不思議ちゃんキャラではあるが、ある意味では五人の中で最も知恵が働き、もっとも行動的な人物なのだ。
最終話のエンドロールで、ももが『学園ゆーとぴあ まなびストレート!』というドキュメント映画を後に発表したことがわかるのだが、これはもちろん高校時代に撮りためた聖桜生徒会の様子を編集したものだろう。深読みをすれば、『まなび』という作品自体が、実はももが撮った作品(を、別の角度から見ているもの)であるといった解釈もできないではない。
すぐれたドキュメント映画には、完全に「あるがまま」を撮っただけという作品は少ない。どこかに監督の意図や操作が入り込んでいるものだ。この『まなび』という上質なドキュメントも例外ではない。ここには、ももの「意図」と「操作」が随所にちりばめられている。
彼女の行動のハイライトといえば、第九話の電波ジャックである。あれは、作者が作品に加えた最もわかりやすい「演出」である。あのとき、生徒会活動の様子が映し出されたのを見たむっちーはこう言った。「あいつ、いつの間にうちらのこんな映像を……」
第二話で、まなびとみかんが生徒会室を大掃除するところで、まなびが天井に仕掛けられた隠しカメラを発見するところが描かれている。これを、ももが仕掛けたものだと考えると、なかなか辻褄があう。第九話、ももが流した映像を見ながらまなびは、「これ、プロモの時の、だよね……」とつぶやいた。それは明らかに、天井の隠しカメラから撮影されたとしか思えないアングルだった。
第四話のラストでむっちーが「なぁもも、うちらが大変なときになぜいなかったかというのはあえて問わないが……」と言っているように、どういうわけだか第四話では、「プロモ」の話が出た直後にももは姿を消している。彼女はどうしていなくなったのか? いったいどこにいたのか? というのは、『まなび』最大の謎の一つである。が、少し考えれば明白に見えてくる。
報道部員のももは、記事の作成などでよくパソコンを使用しており、電波をジャックして放送を乗っ取るほどのこともできるのだから、機械に関しての知見は相当なものだと思われる。おそらく、まなびやみかんやむっちーが苦労して取り組んだCGの作成も、お茶の子さいさいでこなせてしまっていただろう。そう、もしも第四話でももが姿を消さなかった場合、極端に言えばめぇの代わりにももがCGを作るということだってできたわけである。しかし、それでは良い「作品」にならない。
プロモをCGで作ることが決まった時点で、ももは姿を消そうと決めたに違いない。CGは、めぇが中心になって作らなければいけなかった。でなければドラマ性がない。でなければ、めぇが確固たる「役割」を持って生徒会にとけ込んでいくことができなかったであろうし、正式な役員として名を連ねるきっかけにもなりえなかった。ももは、そういったことをすべて計算して、きっと姿を消したのである。
また同じ第四話の、むっちーがめぇの部屋を訪れる場面では、広角レンズを使ったかのような「歪み」のある絵が出てくる。これはめぇの精神状態、またはめぇとむっちーのこの瞬間の関係を表したものであるととらえることができるが、「ももが仕掛けた隠しカメラを通した映像」であるとこじつけることも、不可能ではないのではないか。
さらに考えると、プロモを発表する集会でパソコンが不自然にフリーズしたのも、ももの仕掛けかハッキングによるものであると考えることができそうだ。少なくともあのシーンで、体育館内にももを確認することはできなかった。ただ、あれはめぇがわざとフリーズするように作った(だからこそ口頭で解決方法を指示できた)という解釈も可能だし、確信は持てないが、そう考えることもできる、ということが、ももというキャラクターにより深みを持たせているのではないかと思う。
第十一話でも、ももは大活躍する。バンドの演奏が始まる前に、ももはヴォーカルの女の子と何やら打ち合わせをしている。あれはどう考えても、「最後にまなびをステージ上に上げて歌わせよう」と話しているとしか思えない。その後ステージにまなびを連れてくるのがももならば、背中を押してステージへ上がるように促すのも、ももなのだ。
そして、まなびが校歌を歌い終わったあとにはステージ裏に走って花火を打ち上げている。二〇三五年の物価についてはわからないが、あれだけの量の花火を打ち上げるのに、学園祭の予算だけで事足りるものなのだろうか。もしや、小鳥グループのお金がどこかで動いているのではあるまいか? とさえ邪推してしまう。それはさすがに不明であるが、まなびの歌と花火とで学園祭をしめくくる、というのは、完全にももの発想であるということは疑いがないだろう。
ここまで来ると、あの「超自然的な力が働いたとしか思えない」と言われた、第十話における明らかに不自然な時計塔および生徒会室の爆発も、どこかでももの思惑が働いているように思えてくる。「妖精さんは本当にいたかもしれません。きっと、これはたたりなのです」とみかんは言っているが、妖精というのは、もものことなのかもしれない。
生徒会室を爆破すれば、新たな生徒会室を作らざるを得なくなって、ふたたび「リフォーム」の必要が生じる。そうすれば、第二話で「協働」の楽しさを知って味を占めた生徒たちがまた集まって、署名運動も好転するかもしれない……、そこまで計算して、ももは時計塔もろとも生徒会室を爆破したのではないか。ドキュメント映画の監督として、そのように「物語」を作り上げていったのではないか。ももの不可解な行動と、『まなび』の中に散見する不自然な現象との辻褄を合わせるには、そのように考えるしかないのである。
『まなび』の主人公はもちろんまなびであり、裏の主人公はみかんである。めぇとむっちーの背負っているものは大きく、それぞれ主役級の内面を持たされている。そして、最後に残ったももは、内面こそ深くは描かれないものの、陰で物語を操っていた優秀すぎる裏方であり、まさしく「監督」のような存在であった。
●あとがき
ばたばたしていて、結局一日しか書く時間がありませんでした。なので、正直書きたいことが全部書けたとは到底思っていませんし、論理にも穴があったり、本編で見落としている部分や勘違いしている部分があるかもしれません。しかし、僕が『まなび』のことを思う心は、魂は、二〇〇七年のはじめからずっと、ひとかけらも変わってはいません。あのころの情熱のまま、あのころ以上の愛情を持って、精一杯書きました。そのことだけでもどうにか伝わればいいなと思っています。
こんな、やたらに文字数だけ多くて、アニメや『まなび』を知らない人にはなにがなんやらようわからんかもしれないような冊子を、ちゃんと読んでくれる人がどのくらいいるのか、ぜんたい不明です。しかし、これをきっかけに『まなび』に興味を持ってくれたり、より深く「読んで」みようと思ってくださった方が一人でもいたら、それ以上の幸せはありません。僕はこのアニメが好きです。だって正しいんだもん。美しいんだもん。社会というのは、このようでなくてはならんと信じているのだもの。
紙面と時間の都合で主題歌のことについて触れられなかったことが非常に残念です。『A HAPPY LIFE』『聖桜学園校歌』『桜舞うこの約束の地で』という名曲の歌詞をじっくり味わうことで、『まなび』の世界観を理解するのに非常に役立つことと思います。興味のある方はぜひ、聴いてみてください。キャラソンも、どれもいいです。まなびの『まっすぐ大作戦♪』『生徒会室REVOLUTION』なんか、最高です。
第十一話のバンドのシーンは、『ハルヒ』の数段優れていると、僕は思います。作画や楽曲の質に関する話ではなくて、演奏される曲が作品全体のテーマをそのまま表していたり、歌自体がにぎやかしではなくストーリーに直接関わってくるという点で、僕は非常に好きだし、すばらしいとも思っています。挿入歌というものは、こういうものでなくてはいけません。僕が『宇宙船サジタリウス』を心から愛している理由の一つに、堀江美都子の歌う挿入歌『愛が心にこだまする』が、作品全体のテーマをそのまま表していたり、歌自体がにぎやかしではなくストーリーに直接関わってくるからというのがあります。OP・EDと同じく影山ヒロノブが歌うイメージ・ソングの『ソウル・ブラザー』『LIVING IN THE LIFE』なんかも、作品の世界観や価値観を的確に表現している名曲です。
二〇〇九年五月一〇日 芝浦慶一
●改版にあたって、追記
以下の追記も含めて、この冊子を書きながら幾度となく泣きそうになった。というか泣いていた。書いてみると、まなびたちのそのときの気持ちが伝わってくるような気がする。我ながら気持ち悪いが、どうやら本当に筆者は『まなび』が大好きなのだ。
最終話で、アメリカに旅立っていくみかんのせりふについて、どうしてももう少しだけ語りたい。
「でも、わたし信じてみるよ。ずっといっしょだ、って。今までのことを思い出せば、信じられる。」
このフレーズには、理屈なんてまったくない。「今まで」がどうだったからといって、「これから」がどうなるかなんて、わかったもんじゃない。理屈ではそうだ。経験や歴史に学んでさえ、そうだ。千年前の『枕草子』でも、「男、女をば言はじ、女どちも、契り深くてかたらふ人の、末まで仲よき人、かたし。」と言っている。
しかしみかんは、まなびたちは、そして視聴者たるわたしたちは、「信じる」ことができる。まなびたちが、『まなび』という作品が全一三話をかけて積み上げてきたものを、その絆を、その素敵さを、その揺るぎなさを、信じることができる。これを筆者は「祈り」と呼ぶ。まなびたちが祈り、視聴者が祈るとき、信じるということは真実ということへ変わっていこうとする。最終話の、空港に立つみかんを四人が見送る場面が『まなび』の最も美しいシーンである。まなび教の筆者は、何度見てもそのつど敬虔な気持ちにさせられてしまう。
アニメ『ふたりはプリキュア Max Heart』最終話、最終決戦における以下のやりとりにも、これと通ずるものがある。
なぎさ「ここで倒れるわけにはいかないの!いろんなことが、……あったんだもん!」
ほのか「でも、乗りこえてきたのよ!」
なぎさ「だから、あんたなんかにっ」
ほのか「いま、ここで、あなたなんかにっ」
ふたり「負けるわけにはいかないの!」
ここには、理屈などない。「いろんなことがあった」、だから「負けるわけにはいかない」。まったく、筋道もなんにも立っていない。同じことは無印の『ふたりはプリキュア』最終回でも言える。
なぎさ「たしかに、あんたの存在はおっきい。とてもわたしたちにはかなわない。だけど、わたしたちは絶対負けない。負ける わけにはいかないの!」
ほのか「わたしたちには大事なものがある。大事な人たちがいる。メップルやミップル、そしてポルン。そしてわたしたちを支えてくれるのは、すべての命。わたしにつながる、すべての命よ」
なぎさ「だから」
ほのか「わたしたちは」
ふたり「絶対負けない!」
「大事なものがある」「すべての命が支えてくれている」、だから、「絶対負けない」……これも理由になっていない。
しかし筆者は、ここで「そうだ」と思える。「なぎさとほのかは、絶対負けない」と信じることができる。なぜなら、いろんなことがあったから。一年間、四九話をかけて積み上げてきた、「ふたり」の固い固い絆。必殺技を撃つたびに強く握りしめあってきた、「ふたり」の手のひら。それを知っている。負けるわけなんてない。そう思える。いや、そうとしか思うことができないのだ。
(ところで、ここに掲げられた「わたしにつながる、すべての命」という言葉は、筆者にとって語っても語りつくせないほど重要なテーマであるが、今回は割愛する。)
また、筆者の心より愛するとよ田みのるの『ラブロマ』(アフタヌーンKC)という漫画でも、同じような場面がある。
主人公の星野くんが高校卒業後にアメリカへ発つことを決め、恋人の根岸さんと何年も離ればなれになる道を選んだ。「別れる必勝パターン」とまで言われ、一時は根岸さんも不安になる。しかし、筆者には信じられる。祈りを捧げることができる。もちろん当事者をはじめ、登場人物たち全員が、おそらく同じ祈りを抱いている。読み切り掲載から三年半、コミックスにして全五巻のあいだに、いろんなことがあったのだ。「あの二人なら、きっと大丈夫だよ。だって、いろんなことがあったんだもん」、そう思える。そうとしか思えない。
『まなび』の最終話、最後の最後のシーンは、果てしなく続きそうなまっすぐな道を五人が歩き始めるシーンだ。それが突然、途切れて終わる。わずかに一歩か二歩、踏み出すか踏み出さないかというタイミングで画面が真っ黒になり、「完」という文字が表示される。その後のことは、わからない。
五人がどこまで一緒に「まっすぐ」歩いて行けるのか、視聴者に知るよしはない。しかし、信じられるし、祈ることができる。「この子たちなら大丈夫だ、きっと」と思うことができる。『まなび』は、そう思わせるに足るだけの作品であると、筆者は思っている。
これまで制服や水着やパジャマのような、いわば「個性」の存在しない服を着て集まっていた(特別編がほぼ唯一の例外であり、第三話でまなびから深夜に呼び出される時でさえわざわざ制服に着替えていた)みんなが、卒業後には、当たり前のようだがめいめい好みの私服を着て集う。この、みんなが歩き出すシーンも、私服である。
「ちがう色したシャツ着ているけれど おんなじ色の夢を追いかけた」
とは、映画ドラえもん『のび太と竜の騎士』の主題歌『友達だから』の一節だが、それぞれがまったく違った服を着るようになっても、同じ色をした「まっすぐ」な道を、歩きはじめる。きっと、離れることはない。「ずっといっしょ」だ。
もちろん、脳天気にただ「この子たちなら大丈夫だ」と思うわけではない。続いていく人生の長い道の中で、いろいろなことがあるだろう。辛いことも悲しいことも、時には喧嘩したり仲違いしたり、疑ったり、疎遠になってしまうことだってあるかもしれない。でも、それでも、祈らざるを得ない。祈りたいのだ。美しいもの、正しいものの存在を、信じていたいのだ。だから、少なくとも筆者は、『まなび』を愛する。『まなび』を愛することによって、人生を愛そうとする。人間を愛そうとする。「信じること」を、「祈ること」を、「だれかといっしょに笑うこと」を、その力を、可能性を、希望を、信じたい。絶望にあふれた、どうしようもない世の中で、どうしようもないような悪意に囲まれて、それでも信じていたい。これは願いだ。祈りだ。現代人が元来ひねくれていて、「まっすぐ」生きていくことなんて、とてもできそうにないがゆえの……。
『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』というタイトルには「ゆーとぴあ」……つまり「理想郷」という言葉が含まれている。この言葉こそが、『まなび』が現代に向けた批判の核心である。
「理想郷」というものが、かりに存在するとすれば……? その答えは、きっと、このフィルムの中にある。
二〇〇九年五月一二日 芝浦慶一
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